2025.4.27

死の恐れからの解放

 

✝✝✝ 聖書のことば ✝✝✝ 

死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。 《ヘブル人への手紙2章14b-15節 (新改訳聖書2017)》



 自分でガムシャラに努力してみたところで道が開くことのできない課題があります。

それは、「死」の問題です。

長寿社会の日本ですが、生物学的には120歳までしか生きられないそうです。

 

 詩篇90篇10節には、「私たちの齢は七十年。 健やかであっても八十年。 そのほとんどは 労苦とわざわいです。 瞬く間に時は過ぎ 私たちは飛び去ります。」とあります。

70年生きてきて思うのは、1年が過ぎるのが早いことです。

地上を後にするときも瞬く間にくるのではないでしょうか。

 

 聖書には、「死の力を持つも者、すなわち、悪魔」とあります。

悪魔は、私たちの罪を訴えます。

悪魔(サタン)は、「訴える者」の意味があります。

私たちの罪を探り当てて、「罪あり」と訴えます。

「罪の報酬は死」(ローマ6:23)ですから、恐ろしい存在です。

私たちは、永遠の滅びに入れられてしまうのです。

 

 どのようにして悪魔を滅ぼすのでしょう。

罪人である私たちを主イエスに買い取ってもらうのです。

お金ではありません。

罪の身代わりとして、ご自身の血による贖い(代価)を通してです。

ただし、ここで大切なのは、私たち一人びとりが主イエス・キリストをわが救い主と信じなくてはなりません。

イメージとしては、自分の足で主イエスさまのところに行くという言い方ができると思うのです。

そうすることによって、救いとして「永遠のいのち」をいただくことができます。

 

 悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。

死の恐怖は、主イエスをわが救い主と信じることによって解決できます。













2025.4.20

神の愛の示し方 人知を超えている

 

✝✝✝ 聖書のことば ✝✝✝  

 

私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。(ローマ人の手紙5章8節) (新改訳聖書2017) 

 

 「好き」とか、「愛してる」という言葉を耳にする機会があります。真剣な思いが込められていることもあるでしょうが、口先だけの愛ということもあります。

 二葉亭四迷は、I love youを「死んでもいいわ」と訳しました。

文学作品ですから、「私はあなたを愛しています」ではグッとこなかったんでしょうね。

 

 

 文学作品はどうであれ、ローマ人の手紙5章8節は、私のために死んで人がいると述べていますから、深刻な話しだと思うのです。 

問題は、「私たちが罪人であった」点にあります。

本来は、「死」ななければならなかったのは、私でありあなただったはずです。

「キリストが私たちのために死なれた」とは、身代わりの死を意味しているのです。

それは、神は私たちに対するご自分の愛を明らかに したものです。

 

 10人おれば、10人とも愛の表し方に違いがあるでしょう。

ローマ人の手紙5章8節は、究極の愛の示し方だと思うのです。

キリスト教が愛の宗教と呼ばれるのは、キリストの十字架によって示された神の愛からきているのです。










2025.03.30

移動式のお宮さん

 

✝✝✝ 聖書のことば ✝✝✝ 

 

あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。    コリント第一の手紙6章19節 (聖書 新改訳2017)

 

 

 イエス・キリストは、「あなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。」(ヨハネ14章17節)と、お語りになられました。あなたがたとともに、あなたがたのうちにおられるのは、真理の御霊(聖霊)です。

 

神秘的な話だと思いませんか。なぜって。それは、聖霊が内住してくださっているというのですから。

 

  私は、小学生時代に牧師が話された聖霊の話を今も忘れることができないのです。「みなさん、よく聞いてください。主イエスさまを信じると、聖霊がその人の内に住んでくださいます。お宮さんというのはね、神さまが住んでおられるところなんです。パウロ先生が、あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮である。と話されました。ということは、イエス様を救い主と信じた人は、移動式のお宮さんになるということなんです」と、面白おかしく話されたことが今も思い起こされてくるのです。

 

 移動式のお宮さん。驚く出来事がわたしの身に起こったのです。驚きですよねー。










2025.03.23


彼がいなければ手紙一本起こせない

 

 

この手紙を筆記した私テルティオも、主にあってあなたがたにごあいさつ申し上げます。

ローマ人への手紙16章22節 (新改訳聖書2017)

手紙を書くぐらいは人の手を借りることもないでしょう。大抵はそのような返事が返ってくると思われます。最近はさまざまな通信手段がありますから、直筆で書いて封書で送ることは減りました。

 パウロは、ローマ教会に宛てた手紙を口述筆記で行いました。彼は極度に目が悪かったのです。筆記にはテルティオという人物が当たりました。手紙の最後の方で自ら名前を記しています。

 

 口述筆記といいましても、一般的な内容ではありません。キリスト教用語が次々とパウロの口から飛び出してくるのですから、さぞかし大変な奉仕ではなかったでしょうか。原稿箋2、3で終わるのでしたら、筆記者は名を残さなかったでしょう。ローマに宛てた手紙は、罪論、信仰義認、聖化、栄化に至る、救いの根幹が記されています。ですから、難儀したのではないでしょうか。

 

 私はこのように思うのです。確かに1人で出来る奉仕もあるでしょう。教会の働きは、牧師一人いたところで何もできません。周囲が気がつかれないような隠れた奉仕が、働きを支えてくれているのではと思わされます。ローマ人への手紙を読みながら、筆記者の存在まで頭に浮かべながら味わうことはないでしょう。私もその一人です。

 口述筆記のテルティオは隠れた奉仕者です。彼なくしては、ローマ人への手紙はなかったかもしれません。そう思わされるときに、教会の隠れた奉仕にも汗を流してくださる兄姉に感謝しなくてはと思うのです。












2025.03.16


感謝から始めるって大切じゃないかなぁ

 

⦿聖書のことば⦿

 

私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。  

 

   コリント人への手紙第一1章4節 (新改訳聖書2017)

 

 

 一日を何から始めていますか。人それぞれだと思います。挨拶から始めるという人もおられるでしょう。神に感謝することから始める人もいると思います。

 

 神さまが私たちに望んでおられる生き方というものがあります。パウロは、このような言葉を記しています。

 

すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケ人への手紙第一5章18節 (新改訳聖書2017)

 

 何事にも感謝できる人は、豊かな心の持ち主ではないでしょうか。家庭環境、経済状態、友人関係など生活上で抱えている状況がどうであったとしても、感謝できる人でありたいと思います。

 

 ある印刷屋さんに仕事依頼の電話をしました。その方がクリスチャンであることは承知していました。電話口にでられると「お電話、感謝します」と言って、私からの電話の要件を受けられました。この時の「感謝」のことばが脳裏に残り、すがすがしい思いになったのを思い起こしています。

 

 コリントの教会は、問題だらけの教会でした。問題がったことで、コリント人への第一の手紙を書く必要が生じました。手紙の書き出しは、挨拶から始めています。問題があるからといって、頭から問題を指摘するようなことはしていません。「あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。」と。

 パウロは、コリント教会の産みの親でした。異国の港町、異教の神々を祀る地域でした。

その地での働きが祝されて救われる人が起こされてコリント教会が誕生しました。それを、「キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵み」という言葉で表現しています。

 

 

 感謝する人は豊かな人です。

 

 感謝する人は神に生きる人です。

 

 感謝する人は言葉に表す人です。

 

 

 

 感謝をもって一日を始め、一日が終えられるように。











2025.03.9

新しく力を得よ

 

十十 聖書のことば 十十

 

主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない。   イザヤ書40章31節(新改訳2017)

 

 

 

 「主を待ち望む者」とは、主が最善をなしてくださると信じて期待を持ち続ける人のことです。「待つ」のは、現代人が苦手とするところではないでしょうか。私も苦手の方ですから、偉そうなことは言えません。できる限り速やかに求めるものを手に入れたいと願うほうだと思っています。

 

 世紀の大発明、日清のチキンラーメンはお湯を注いで3分待つだけでいただけるのです。東京⇒新大阪 新幹線で2時間27分です。東海道新幹線開業した当時は、4時間かかっていました。1分でも1秒でも早く早くです。

 

 待てない私たちであっても、「主を待つ」信仰姿勢が求められています。「待つ」は、信仰がなくてはできないことではないからです。「待つ」ことで、新しく力を得る、ことができます。

 

  「鷲のように、翼を広げて上ることができる。」と、「鷲」にたとえての表現ですね。主が十字架に架かられ、3日後に復活、40日後に昇天されました。昇天される前に弟子たちにこのように話されました。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(使徒の働き1:4) 弟子たちはエルサレム郊外にあった2階座敷で10日間祈り続けました。そうしたところ、聖霊の大傾注が起こりました。ペンテコステの出来事です。彼らは、福音を宣べ伝えるために、出て行って福音を伝えました。聖霊の満たしによって新しく力を得たのです。

 

 福音宣教の働きは困難の連続でした。走っても力衰えず、歩いても疲れない。肉体的にも精神的にも支えが必要になりました。彼らは、自分の趣味や日常生活のために何かを得ようとして待っていたわけではありません。神さまが、宣教の働きのために、弟子たちをつくり変えられたのです。私たちも聖霊に満たされて、宣教の働きに用いていただけます。

 

 

 何を待つのでしょうか。聖霊の満たしていただいて、新しく力を得ることですね。









2025.02.23


信じられるのは幸いなことなのです

あなたがたは心を騒がせてはなりません。

神を信じ、またわたしを信じなさい。

 ヨハネの福音書14章1節 (新改訳2017)

 

 ガーン。

 主イエスが弟子たちに告げられたのは、別れです。

会った数だけ別れがありますが、特別な別れです。
事前には、苦しみを受けて殺されることは、話されていました。

ついに主の時が来ました。

「別れる」とは切り出されず、前置きします。

あなたがたは心を騒がせてはなりません。

 

 別れの理由は、

あなたがたのために場所を用意しに行く(同:2) ためです。

わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、

あなたがたをわたしのもとに迎えます。

わたしのいるところに、あなたがたもいるようにするためです。(同:3)

                                                         

実にわかりやすいメッセージです。 

 1 場所を用意しに行く

 2 場所が用意できたら

 3 迎えます

 4   主イエスがいるところ

 5   あなたがたもいるようにする

 

 このところは、訣別メッセージと言われます。
別れる理由は分かりやすいですが、

このメッセージの後に主イエスは十字架に架かられ死なれます。
死なれた理由は、世の罪を取り除くためでした。
どのような人であっても、

私の身代わりとしてのイエスの死を受け入れなくてはなりません。
ここに、信仰が求められているのです。

信じる者は救われます。

 

主イエスを信じる者に対して、

あなたがたをわたしのもとに迎えます。

わたしのいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

がそのとおりになるのです。

 

主イエスを信じる。

主イエスを信じれるのは何と幸いなことでしょうか。










2025.0216

AIではだせない答え

順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。伝道の書7章14節 (新改訳2017)

  時代のトレンドは、AI(人工知能)である。人とコンピューターの違いは何なのか考えてみたことがあるだろうか。今から数十年前に何かで読んだ本の中にこうあったのを思い出した。人とコンピューターの違いは、宗教を持っているかいないかの違いであると。パソコンが世に出た当時はそんなことは思ってもみなかった。しかし、今日のように、情報処理技術が恐ろしい勢いで進化していっている中で、疑うことはなくなった。

 聖書には、「これもあれも、神のなさること。」とある。どんなに情報技術が進化しようとも、神の域にまでは到達することはない。神のなさることは、はるかに人知を超えたものなのだから。計算では割り出せないものがあるのだから。

  未来予測から導き出して対応を検討することは重要である。たとえば、これから先の地球の温暖化がどうなるのかについてはどうだろう。膨大な情報を処理した結果を導き出すコンピューターに任せるべきである。

  「後のことを人に分からせないためである。」と聖書にあった。自分の将来予測をコンピューターが導きだしてくれるのだろうか。ある部分ではYesであり、Noもあるだろう。自分の明日という日については、神さま以外にはわからないのだ。8年前に階段から落ちて骨折を経験した。明日という日のことはわからないものである。聖書は言います。「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。」人として、自ら考えることをやめてはならない。








2025.0202

希望にあふれて

 

「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。 」 (ローマ人への手紙15:13)


「いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。」(Ⅰコリント13:13)は、よく知られたみことばである。

「いつまでも残る」ものだから、大切なものである。

「これら三つ」は霊的資産だと言ってもよいと思う。

 ここに「希望」とあるが、どのような「希望」をお持ちなのだろうか。

希望は“のぞむ”という字が二つ連なった熟語だから、希望とは、のぞむことである。



 アンネ・フランクの格言の一つに、「希望があるところに人生もある。希望が新しい勇気をもたらし、再び強い気持ちにしてくれる」がある。

 だれもが「希望」を持っているのは生きる力になる。

 勿論、その日その日を生きるのが精一杯という人もいるだろう。

「アンネの日記」は、2500万部が読まれた大ベストセラーである。

彼女は1944年にナチス・ドイツによって修養所に入れられ、最後は腸チフスによって15歳の生涯を閉じた。

ユダヤ人であるがために、隠れ家生活を余儀なくされたときに、アンネは日記を記した。

そこに記されていた言葉が格言としてしられるようになった。

 

  牧師として、「希望」を語りたいと思うようになった。 

 2025年度 与えられたみことばは、冒頭に記した聖句である。

 標語は「喜びと平安、希望にあふれる教会」とした。

「希望の神」が「希望にあふれさせてくださいますように」とある。

ここにある「希望」は、異邦人の救いを指している。

私たち日本人も、ユダヤ人からみれば異邦人である。

この異邦人にまで救いの御手が差し伸べられている。 

宣教に力注ぐ一年でありたい。







2025.0209

希望にあふれて

「どうか、希望の神が、信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし、聖霊の力によって希望にあふれさせてくださいますように。 」 (ローマ人への手紙15章13節)


 1 希望の神

 使徒パウロは、他国の人々に神の救いを伝えるために神から選ばれた人物です。9-12節では旧約聖書からの聖書のことばを引きながら、すべての国民が神さまを賛美するようになるでしょう。神の約束を明らかにします。それを受けて13節は、神の約束を受けての祈りのことばです。「希望の神」がとありますが、神さまへの望みを言い表しています。パウロは燃える心をもって神を伝えました。アンネ・フランクの格言「希望あるところに人生もある。」を思い起こしました。

 

 2 希望にあふれて

 聖霊降臨(ペンテコステ)が起こり、すべての国民に向けて、神の救いを伝える働きがスタートしました。初代教会時代はキリスト教の草創期です。それから2千年が過ぎていきました。困難や迫害を乗り越えながらも、神の救いが述べ伝えられました。神の救い神の救いとは、キリストを救い主と信じることによって与えられるものです。この日本にも神の救いが伝えられて、信じる者が起こされてきました。現在もその働きは続けられています。伝える働きが祝されて、「希望にあふれさせてくださいますように。」は、次々と信じる者が起こされる願いが込められています。

 

 3 キリストを伝える

 世にあっての希望は、たいていの場合一時なものに過ぎないように思えてしまうのです。神が人にお与えくださる希望は、「信仰によるすべての喜びと平安であなたがたを満たし」ていただけるというものです。クリスチャンは、一人でも多く救いの恵みに与る人が起こされるように祈って、キリストを伝えます。この働きはただ自分の思いや願い、働きだけでなるものではありません。「聖霊の力」が働くことをとおして信じる人が起こされるのです。キリストを信じる者、喜ぶ者が起こされることが、「希望にあふれさせて」いただけるようになるのです。