2024.11.17
神の忍耐
これからの時代はどうなっていくのでしょう。世界の終焉に向かっていくのでしょうか。わたしの手元に、「366日元気が出る 聖書のことば」岩本遠億著がある。1月2日は、「時代を救うもの」と題して、このように書かれていました。悪い時代としても民族主義、自国第一主義の台頭と人間性の軽視、深刻な少子化と教育の質の低下、そして慢性的な政治不信の蔓延する時代」を挙げていました。
それは、クリスチャンでなくても一般的に言われていますから、驚くこともありません。聖書は悪い時代についてどう述べているのか。彼は、詩篇12篇8節「人の子の間で 卑しいことがあがめられているときには 悪しき者が いたるところで横行します」 ずばり、卑しいことが崇められる時代は滅びてしまうのです。
では、今も世が保たれているのでしょう。それは、神の忍耐によるところが大きいです。こう述べられています。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
(Ⅱペテロ3:9) 主は何を求めておられるのでしょう。すべての人が悔い改めることにあります。
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
2024.11.3
人生の目的
この地球上には何十億という人が住んでいる。自分はその中の一人ということになります。ちっぽけな存在のように思えるが、人の人生には目的がある。自分でどんなに考えてみたところで答えが見つかるわけではない。私たちは聖書に帰る以外にはない。
聖書の神は、一人ひとりを、目的を持つものとして創造された。多くの人が、自分の思いを遂げることに人生の目的があると思い過ごしをしている。神のない人間中心のモノの見方は、人の傲慢でしかない。
人がまことの生ける神から離れたことによって、人の世界は混とんとしたものになってしまった。祈りをもって、十字架にお架かりになられた主イエスに心を向けてみようではないか。このキリストが私たちの内に生きてくださるのである。キリストの恵みがわかれば、生かされていることに気付くはずである。
私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。 (ローマ人への手紙6章8節)
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
2024.10.20
わたしとあなたの関係
イザヤ書43章1〜2節を読んでみますと、「わたし」が4回、「あなた」が8回でてくる。文脈からは、「わたし」は「主」であることがわかります。「あなた」ぱ、「ヤコブ、イスラエル」ということになる。明日の説教は、このところから話すことになるが、ここにでてくる「イスラエル」は、霊的イスラエルを指していると言われる。明日は、そのことには触れないでおきたい。
説教するものとして着目したのは、「わたしとあなたの関係」である。イザヤ書43章だけでなく、聖書全体が神と人との関係を教えている。ヨハネの福音書15章には、ぶどうの木のたとえがある。1節の書き出しは、「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。 」とある。「わたし」は主イエスで、ぶどうの木の枝で「あなたがた」(3)である。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。」(4) このたとえからも、「わたしとあなたの関係」が述べられているのがわかります。
キリスト教は、神と人との関係を教えている。関係を大切にしながら聖書を読んでみるのは、聖書理解のうえでは大切である。
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
2024.10.13
「望みを抱いて喜ぶ」
「主イエスを喜ぶことは. 主イエスを喜ぶことは. あなたの力です. 感謝をささげることは. あなたの力です. 朝に夕にとこしえまでも. 王なる主をたたえましょう。」ミクタム・ワーシップの中に収められている曲です。
ローマ人への手紙12章11節に、このようなみことばがあります。「望みをいだいて喜び、苦難に耐え、ひたすら祈りなさい。」上記のワーシップの「主イエスを喜ぶ」と、「望みをいたせいて喜ぶ」とは、同じ意味の喜びだと思いました。
「神を喜びとする人生」ということになると思います。この世で生きておりますと、楽しくないこと、苦しいこと、悲しいことの連続です。明日のことが考えることさえ見出しえない中を通されます。自分に焦点を当てみたところで喜べません。神に焦点を当てた喜びに行きたいと思わされます。
この「喜び」は、英語では「リジョイス」です。「褒め称える」の意味です。とても喜べない私のところにも主が喜びとなってくださいます。主を喜びましょう。褒め称えましょう。
2024.10.6
「第4ブロックの集い」
11月4日(月・祝)、マウンテン青垣を会場にして兵庫教区第4ブロックの集いを開く。私たちの教会では、すでに40人余りの参加希望がある。ブロック6教会では、110名の参加がでている。もう少し、参加者がでてきそうである。
2023年半ばから新型コロナが第5類扱いになり、マスクなしでも出歩けるようになった。そうして、2024年を迎えた。昨年の秋に、「旧青垣キャンプ場(マウンテン青垣)を借りて集まりができないか」との意見が先生方から寄せられた。
最初は、「信徒同士が青垣で一堂に会して交わるのも意味があるだろう」との意見もあったが、今年の3月にルカの福音書24章32節のみことばが私に与えられた。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」である。「聖書を説き明かし」を通して「心が燃える」に引き付けられるものを覚えた。「心が燃える」とは、霊の感動のことを言っている。聖書の説き明かしとは、説教である。私たち牧師は、説教に命をかけている。そこで、このように思った。救いの説教と、献身の説教を講師を招いてしていただくことにしよう。
第4ブロックは、2回のメッセージを中心に交わりを加えたプログラムになった。その集まりまで1か月となった。祈って準備していきたい。
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
2024.9.8
試練は神からくる
ネット検索をしていると、大谷翔平の名前を一度は目にすることになる。言わずと知れた超有名人である。大谷の所属するドジャースのニュースにも触れることになる。「ドジャースは、試練の年」とニュースで流れていました。あまりにも故障の選手が多いのである。「試練」は、一般的に用いられてはいるが、聖書に生きる私たちにとっては、すべてのクリスチャンが受けるものとして知っている。何十年というベテランのクリスチャンにも、洗礼を受けて間もないクリスチャンにも試練が襲ってきます。
誘惑と試練は違っている。誘惑は、サタンからくる。誘惑は、人を罪に陥れようと働きかける。そして、人を罪に誘い込んで神から引き離そうとする。サタンは大変に狡猾(こうかつ)である。40日40夜断食された後の主イエスに近寄ってきて、試みてきた。それに対して試練は、神から来るもので、試練の中にある人を成長させ、神の愛に満たそうとする。試練は、訓練でもある。聖書人物も試練の中に入れられた。ヨブやアブラハムの名前も挙げられるだろう。ヨブ記29章を読んでみて、ヨブは自己義の人だったのかもしれない。この章には、やたらと「私」が登場する。52回も登場する。試練を通して自我が扱われなくてはならなかったのである。アブラハムは、神からイサクを生贄(いけにえ)として捧げるように言われた。彼は、神のことばを信じてモリヤの山でそれをしようとした。神は、そこに羊を準備しておられた。神と息子のどちらを選ぶのかは、彼には大きな試練であった。神と神のことばを優先した。
私たちにも試練によって扱われるときがくるかもしれない。聖書から試練の意味を知る意味は大いにある。
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
2024.8.18
多くの実を結ぶ
「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネの福音書15章5節)
庭の片隅でミニトマトを収穫している。昨年と比べると収穫は良い方である。しかしながら、プロの生産者のようにはいかない。生産者は、色や形、味などが揃ったものしか市場に出せないだけに、日ごろの世話を惜しむことをしない。豊作貧乏は困ることになるが、豊かな収穫を期待するだろう。
ヨハネの福音書15章にはぶどうの木のたとえがでてくる。このたとえの結論は、多くの実を結ぶことにある。では、どうすれば豊かな実を結べるか、である。「人がわたし(主イエス)にとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、」とある。双方がとどまり続けることを通し始めて、「その人は多くの実を結」ぶことになる。
とどまったからといって、お金持ちになれるわけでもなければ、社長になれるわけでもない。病弱のままかもしれないし、日常生活が大きく変化することがなかったかもしれない。多くの実とは、御霊の実(ガラテヤ5章22〜23節)を指している。それこそが、その人にとっての主が与えてくださる豊かさの中味である。
私たちも、豊かな実を得ることができる。
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
2024.8.11
一人の信徒さんのいやしの証し
川本役松兄の証し「博打打(ばくちうち)の回心は、仁科博雄師がまとめられたものです。救われ、家族の婚姻関係で東大阪で生活されるようになりました。仁科牧師(当時の神戸中央教会牧師)が東大阪に訪ねられたときの話です。役松兄が、自分の胃がんの癒しについてこのように話しておられた一部を掲載します。
「仁科はん、わてはほんまに胃がんや、手術せんとあかんと医者に言われとったんや」「先生、わては年や、手術で腹は切らんと言って家で寝て、起きては一生懸命祈ったんや」「そしてなぁ、好きな肉を毎日食べたんや、創価学会が近所から来よってな、キリストなんかやめて、学会に入れと言うのや、そんなの偽キリストのアクマや、帰ってくれ、と聖書の話をして追い帰したんや」「ほんと!そうやなあ」「そうしたらどうにでもイエスさんに治してもらわんとあかんやろ!必死に祈ったなぁ」「うんうん」「病院に行って診てもろうたら、医者が不思議や、あんたの癌は消えている、治ったなあ」と言われ「先生、あんたも、キリストになったらどないどす」と感謝した。と証をして下さったのです。
「何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。」(Ⅰヨハネ5:14)
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
2024.7.28
主イエスの出番
思うのです。ものごとが上手くいっているときは、イエス様のことなどは忘れ去られていませんか。信仰がなくてもどうということはない。そんな思いになっていないでしょうか。
ヨハネの福音書2章1-11節には、カナの婚礼の出来事が記されています。この箇所での主役は主イエスてせはなく、花婿と花嫁です。時として、主イエスさまは忘れられた存在となるのですです。
「ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって『ぶどう酒がありません』と言った。」(:3) それに対して母マリヤに、「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」(4) とお答えになりました。母はイエスが何とかしてくれると信じて動きだしました。「イエスは給仕の者たち」(7)に、「水がめを水でいっぱいにしなさい」(7)とお命じになりました。そして、そのかめを世話役のところに持っていったところ、「良いぶどう酒」(10)に変わっていました。文語聖書にある、「水汲むしもべを知れり」(9)の表現が今も心の中に残っています。
最後まで主イエスは、黒子に徹しられたように思われます。「私が水をぶどう酒に変えたのだよ」とは話されなかったのです。汲んだ給仕役以外には知っている者はありませんでした。マリヤのように追い詰められたときに、私たちはまっすぐ主イエスさまに話しするでしょうか。このメッセージを準備しながら、新聖歌200番 「心に悶えあらば」が思い起こされました。
1 心に悶えあらば イエスに話せ イエスに話せ
悲しみ憂(うれ)いあらば イエスに話せよ
イエスに話せ 良き友なる イエスに話せよ
思案せずに 何事をも イエスに話せよ
にっちもさっちもいかなくなったなら、主イエスの出番です。どうか主よ。わたしのところに来てください。みわざをなしてくださいと祈ろうではありませんか。
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
2024.7.21
闇にとどまる必要はない
「一寸先は闇」とは、一寸(約3cm)先が真っ暗闇で何も見えないように、これから先どんな運命が待ち受けているのか、まるで予測がつかないことのたとえです。今年の元旦に能登半島地震が起こりました。思いもかけない出来事でした。7月現在も復興が思うようには進んでいないようです。
今月の19日も大きなニュースが飛び込んできました。Windowsが入っているコンピューターに問題が発生し、ブルースクリーン(BSoD)エラーが発生し、クラッシュしていて、空港などの業務に支障が起きました。「一寸先は闇」とは、このような出来事をいうのです。
さて、私たちは今の暗き世を歩く秘訣を心得ているでしょうか。この世に起こる出来事は、私たちと無関係というわけにはいきません。影響をもろに受ける場合もあります。しかし、クリスチャンの私たちは、「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれも闇の中にとどまることのないようにするためです。」(ヨハネ12:46)と、約束してくださっています。世の中は、ますます暗闇が深くなっていくかもしれません。信じる者には、闇はとどまらない。言葉では、このことは説明はできません。しかし、信じる者の中に「光」なる主は来てくださったことにより、心は平安に満たされるのです。
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
2024.7.14
お札のクリスチャン
新しいデザインのお札が登場しました。みなさんは、手にしましたか。私はまだ手にしたことはありません。買い物をして1万円を差出しました。お釣りに新札を期待したのですがダメでした。それはどうでもいいことなのです。日本のお札には、よくクリスチャンが登場します。今まで使ってきた千円札の肖像は、野口英世です。福島県会津の出身で、会津若松にある教会の信徒でした。新渡戸稲造は、同志社大学の創立者です。彼も、クリスチャンでした。
この度の新5千円札の肖像は津田梅子です。彼女はクリスチャンです。そんなことを思い浮べながら、日本のキリスト教の黎明期、明治時代のクリスチャンの存在の大きさを覚えます。私たちは、彼らと同じようにはなれないかもしれませんが、今あるところで輝けばいいのです。男性で明治期に生まれた人はいなくなったそうです。明治は遠くなりにけりです。野口英雄、新渡戸稲造、津田梅子のことは、ちゃんと学んでおきたいものです。
2024.7.7
永遠のいのち
ヨハネの福音者3章16節は、覚えておきたい聖句の1つです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」
この「永遠のいのちを持つ」は、現在形で書かれています。イエス・キリストを信じるならば、永遠のいのちを持つことができます。なんと幸いなことでしょうか。 これがイエス・キリストの救いだからです。
なぜ救いの証しをするのでしょう。
Ⅰヨハネ5章11節にはこうあります。「その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。と述べています。」
どのような証しでしょうか。ここに2つのことが述べられています。1つは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ。もう1つは、そのいのちが御子のうちにあるということです。
「いつ永遠のいのちとは何ですか」と聞いてこられたら、どのように答えますか。ずばり、それは御子なるキリストのいのち、神のいのちということができます。「神のいのち」は、エペソ人への手紙4章18節にでてきます。
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
2024.6.19
アバ・父よ
主イエスは、ゲッセマネの祈りの中で父なる神を「アバ、父よ」と呼んでいる。これは、マルコの福音書の中にだけでてくる。ゲッセマネの祈りは、主イエスが十字架にお架かりになる直前できごとである。
その時の状況は大変に主苦しいものであった。「イエスは深く悩み、もだえ始め、………『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです』」(マルコ14:33〜34)とある。そんな祈りの中で、父なる神への呼びかけが、「アバ、父よ」であったのは中止に値する。これは、幼児語だと言われている。「天のおちうちゃん」の意味なのだそうである。主は、祈りのときには、日ごろから父に甘えるかのような呼びかけをしていたのであろうか。この時だけであったのか。
さて、この祈りの目的は、「どうか、この杯をわたしから取り去ってください。」(36)というものだった。これに対してみ父からの応答はなかったようだ。十字架こそが、主に託された使命だった。この祈りの後に立ち上がられた主は、「時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。 」(14:41)と言われた。主が世に来られたのは、「罪人を招いて悔い改めさせるためです。多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるためです。」(マルコ10:45)とある。
さて、私たちは、「天のお父さま」と祈っているだろうか。「アバ、父よ」とは言わないだろう。「アバ、父よ」には、愛のあふれる父親の姿を思い浮かべるのは私だけであろうか。
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
2024.6.9
父の日によせて
母の日が、教会から始まったことはよく知られている。次週、6月の第3日曜日は、父の日である。これもまた、教会から始まったものである。ことの始まりは、1910年6月19日 アメリカ、ワシントン州スポーケンであった。市内にあるいくつかのプロテスタン教会が、父親をテーマに説教があり、父親たちに感謝の思いを込めてバラの花が送られた。
「父の日」を呼びかけたのは、ソノラ・スマート・ドットさん。28歳の女性である。父はウィリアム、母はエレンで、二人の間には6人の子どもが生まれた。その6番目の出産が原因で亡くなった。父親は、6人の子どもたちを育てなくてはならなかった。それを助けたのは、6人中の最初に誕生したソノラさんだった。下の5人はすべて男の子だったという。
ソノラさんの教会では、1909年に「母の日」の記念礼拝が行われた。その時に彼女は、「父の日」もあるべきだと考えた。教会関係者にその思いを訴えて、祝われるようになった。父への感謝を表したくても、すでに父は召されている。その思いを、明日の父の日礼拝に表せればと願っている。
2024.6.2
洗礼準備会
受洗希望者が現れた。牧師の私は、洗礼準備会を行うことにした。祈り備えして臨んだ。一方的に話することはしないで、聖書のことばと質問を記したプリントを準備し、自分で答えを見つけて書き入れてもらう方法にした。
最初に、「イエス・キリストは、神ですか人ですか」と、質問して答えをみことばから見つけてもらうことから始めた。簡単なはずであるが、考え込む人がいるかもしれない。答えは、「イエスは神であり、人である」と、書いてあればよいわけである。
私も自分でプリントにそのように書きこんだ。ふと一つのみことばを思い起こした。「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:9)である。主イエスの地上での歩みをとおして、話されたことや成された一つ一つは、神がどのようなお方かを示すものである。そのことも伝えなくてはと思わされた。 すべての信徒にも、基本から学んでいただく意味が充分にあると思わされた。
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
2024.5.19
口にすべきは感謝
一人の信徒の方が、公民館でアドラーという心理学について受講する機会があったそうである。「感謝を何度も受け取ることによってのみ、人間は自律的に成長していく勇気を獲得することができる」と、アドラーは言っているそうだ。感謝を口にするのはクリスチャンだけかと思っていたが、感謝の大切さな気づいて心理学に応用しているようである。ある教会に電話したときのことだった。電話口にでた女性が、「お電話、感謝します」と言っていた。30年経た今でも印象深く覚えているのだから、よほど心に残っているのだろう。このようなパウロのことばを思い起した。「口にすべきは感謝の言葉です」(エペソ5:4)
最近は、Lineでのやり取りが増えてきている。「ありがとうございます」とか、「感謝します」を、よく用いるようになった。人間関係の潤滑油のようにも思える。「感謝します」と言われて、腹を立てる人は滅多にいないのではないか。
人への感謝と共に、神への感謝はどうだろうか。パウロは、コリントに宛てた手紙の中で、「私は、キリスト・イエスにあってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも私の神に感謝しています。」と、記している。(Ⅰコリント1:4)
神にも人にも感謝して生きるその人こそ、神の願われる人の姿ではないだろうか。
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
2024.5.5
塩屋聖会も新しい流れが
第89回塩屋聖会は、2024年5月3日、4日、6日までの期間行われています。3日間ともに午前と午後の2回で、計6回の集まりです。対面とyoutubeを用いて行われていますので、私たち夫婦は、youtubeで参加しています。
2日目の午前と午後は、青年聖会として開かれた。ソングリーダーが立てられて、次々と若い世代に沿うワーシップ・ソングが、キーボード、ギター、ドラムのバンド演奏によって行われました。塩屋聖会は、歴史がある聖会です。私自身も、聖会で献身の召しを受けてきたし、聖会の司会もさせていただいた。歴史があるというのは、容易に変えられないものです。あえて、2日目は青年に合うプログラムにイメージ・チェンジしてきていました。
聖会が変わってくると、それぞれの教会の賛美のあり方にも影響が大きいと思われます。本気で、青年を捉える、捉えられる教会の姿勢をと、願わされています。
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
2024.4.28
燃える
復活された主イエスが自らを隠して、二人の弟子たちと行動を共にされた。
11キロの距離だから3時間くらいだろうか。
ルカの福音書24章にあるエマオ途上の出来事である。
他の弟子たちも含めて主イエスの復活が信じられない。
だからといって、復活されてすぐに自らを彼らにお示しにはならなかった。
どうされたのだろう。
「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。 」(27)
結果、二人の弟子たちの心に変化が生じた。
二人は話し合った。
「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」(32)
聖書が説き明かされれば、燃えるのである。
みことばが正しく説き明かされるように祈ろうではないか。
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)
2024.4.6
主イエス・キリストの交わり
教会は、交わりを大切と考えている。使徒信条では、「聖徒の交わり」という条文がでてくる。コリント人への手紙第一1章9節には、「神は真実です。その神に召されて、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられたのです。」とある。
ここでの「神に召されて」とは、救われる意味である。「召す」は英語では、「calling」である。「呼び出し」の意味であることに気がつく。今や世界には、80億人に近づいてきている。その世界中から「呼び出して」、救いの中に招き入れてくださるのである。
その目的は、「私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れ」るためであった。「交わり」とは、双方向の関係である。愛す、愛される関係と言えばよいのだろうか。聖書の神は、人格神である。私たちの祈りを聞かれる方である。神はことばを持って御心をお示しになられる。主イエスとの交わりを通して、私たちの信仰がより高くに引き上げられるに違いない。
(聖書 新改訳2017© 2017 新日本聖書刊行会)